世間をお騒がせした三島のカミツキ猿は、三島の名園 楽寿園で飼育されている。通りがかったがバカバカしいから見なかったので写真は無し。
それにしてもよりにもよって名前は「らっきー」とのこと。処分されるところを助命されたので「ラッキー」なのか? 噛みつかれた人は アン ラッキー ということだろう。
ご丁寧に、三島市は市長選挙の投票CMに起用するらしい。
建設の現場で働く労働者・職人の労働条件は厳しい。そのなかでも人のくらしに必要な建築を作る仕事に誇りをもって働いている。 そうした建設労働者・職人を支え仕事とくらしを向上させる運動を発展させることを考え続けていく。
2010年11月28日日曜日
山を越えたがさすがに疲れが・・・
14-15日と千葉銚子、19日豊橋、20日組合の会議、21日蓼科、23日富士宮の仕事から三島に泊り、24日友人の墓参をして熱海で交流、25日は伊東で現場をみて 帰宅。26日材料の受け取り、27日からは遅れている仕事を追い込み・・・・。 山を越したものの疲れが溜まってきた。でもまだ仕事は大幅に遅れている・・・・
三島 楽寿園
三島 楽寿園
2010年11月13日土曜日
2010年11月12日金曜日
フェンスで漏洩防止
ビデオ流失で「情報管理」が語られているので思い出した。
住基ネットが話題になったころ、役場の二階の倉庫のようになった部屋に入って笑ってしまった。そこには檻のようなフェンスで囲まれた1m四方位の一区画があり、中のアングル棚にパソコン様の機械が一台と電源らしき機械が一台。フェンスにはご丁寧に鎖が巻かれ南京錠が掛っている。札には「住基ネットワーク施設につき許可を受けた者以外立ち入り禁止」と重々しく書かれていた。
住基ネットのデーター漏えい防止や「情報管理」とはこんなものだったのか、あまりに時代遅れの感覚に呆れた。
今回の仙石官房長官の「機密保持」もこの程度の認識なのだろう。
住基ネットが話題になったころ、役場の二階の倉庫のようになった部屋に入って笑ってしまった。そこには檻のようなフェンスで囲まれた1m四方位の一区画があり、中のアングル棚にパソコン様の機械が一台と電源らしき機械が一台。フェンスにはご丁寧に鎖が巻かれ南京錠が掛っている。札には「住基ネットワーク施設につき許可を受けた者以外立ち入り禁止」と重々しく書かれていた。
住基ネットのデーター漏えい防止や「情報管理」とはこんなものだったのか、あまりに時代遅れの感覚に呆れた。
今回の仙石官房長官の「機密保持」もこの程度の認識なのだろう。
2010年11月10日水曜日
2010年11月8日月曜日
2010年11月6日土曜日
熊 猫 ?
いつもはいそいそと外に遊びに行って朝・昼・晩の食事時にしか家にいない猫がこの数日はまったくでかけないで家で寝ている。別に具合が悪いわけでもないのに戸口から出ても離れずすぐに家に入る。
すぐ近所で熊が柿を食べていたというから気配を感じているのだろうか?
すぐ近所で熊が柿を食べていたというから気配を感じているのだろうか?
手話ニュース
近頃はいろいろなことが起きニュースも忙しい。特に民放はニュースだかニュースショーだかわからず、おまけに刺激的な映像と表現をおいかけるばかりで肝心のニュースのポイントがボケている。
その点、NHKの手話ニュースは、ニュースのポイントを言葉と字幕で要領よくまとめている。もちろん手話はさっぱり判らないが、肝心のことは十分わかるからお勧めである。
その点、NHKの手話ニュースは、ニュースのポイントを言葉と字幕で要領よくまとめている。もちろん手話はさっぱり判らないが、肝心のことは十分わかるからお勧めである。
2010年11月4日木曜日
2010年11月3日水曜日
日本近現代史
という全10冊のシリーズが岩波新書からでた。
これまで「通史」というとなにか動かし難い権威のようなものを背負って、箱本、第一人者が、というイメージが付きまとっていた。また、近現代史の部分は教室の歴史年表や授業でも最後に「とりあえず」という感じでまとめられたのを見てきた感がある。
台湾や韓国に行った若者たちが年寄りたちが日本語を話せると『無邪気』に感心をしたりして顰蹙をかってきた。この背景にはもちろん国の教育政策の問題が大きいが、きちんと学校教育でも近現代史は教えられてこなかったし、近現代史の通史本が少ないことがある。
このシリーズは、幕末から「郵政民営化」といったつい昨日の日本のところまでを大胆で身近な視点で試論的に書きこんでいる いってみれば、これまでの通史と違って歴史年表の紀元前からはじまって飽きたころに現代にたどり着くのではなく、歴史年表を現代から逆に「なぜ今日がこうなっているか」という視点から現在から過去にそのルーツを探し、明日を探るものとなっている。
歴史観でも社会主義の崩壊をうけて疑問符が増えたマルクス主義歴史観を乗り越えて挑戦していることからも意味がある。
内容や評価についてはいろいろあるだろうが、読みやすいし読む価値がある。
全10冊を読まなくてもシリーズの最後 ⑩「日本の近現代史をどう見るのか」を読むだけでもこのシリーズと150年間の全体像がみえてくる。
これまで「通史」というとなにか動かし難い権威のようなものを背負って、箱本、第一人者が、というイメージが付きまとっていた。また、近現代史の部分は教室の歴史年表や授業でも最後に「とりあえず」という感じでまとめられたのを見てきた感がある。
台湾や韓国に行った若者たちが年寄りたちが日本語を話せると『無邪気』に感心をしたりして顰蹙をかってきた。この背景にはもちろん国の教育政策の問題が大きいが、きちんと学校教育でも近現代史は教えられてこなかったし、近現代史の通史本が少ないことがある。
このシリーズは、幕末から「郵政民営化」といったつい昨日の日本のところまでを大胆で身近な視点で試論的に書きこんでいる いってみれば、これまでの通史と違って歴史年表の紀元前からはじまって飽きたころに現代にたどり着くのではなく、歴史年表を現代から逆に「なぜ今日がこうなっているか」という視点から現在から過去にそのルーツを探し、明日を探るものとなっている。
歴史観でも社会主義の崩壊をうけて疑問符が増えたマルクス主義歴史観を乗り越えて挑戦していることからも意味がある。
内容や評価についてはいろいろあるだろうが、読みやすいし読む価値がある。
全10冊を読まなくてもシリーズの最後 ⑩「日本の近現代史をどう見るのか」を読むだけでもこのシリーズと150年間の全体像がみえてくる。
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