2010年9月27日月曜日

お祭りついでに三三九度

 三三九度の杯を神前結婚式と思われているが、必ずしも神前結婚式と三三九度は直結していない。そもそも神前結婚は大正天皇の結婚式で行われたのが皇室でも始まりである。つまりそれ以前は皇室でも神前結婚はおこなわれていなかった。よく皇室=伝統のようにいわれるが現在おこなわれている皇室の行事の大半は明治になってからでっちあげられたものである。だから「日本古来の伝統」というのはインチキである。「明治になって定められた」というのが正しい。
 もともと日本の結婚式は田舎の結婚式を見ればわかる通り神前ではなく人前である。集まったムラの衆の前で固めの杯をあげる。そこにいるのは祖先であり氏神、八百万の神である。 それを明治天皇制がマネたのだ。
 結婚式場などでもっともらしくその由来を言うがなんとその根拠は「明治神宮」だったりする。明治神宮は明治天皇を祀った神社なんだから、死んで明治天皇の名がついた人を祀っただけで歴史の浅さはいうまでもない。
 三三九度ははるかそれ以前の鎌倉時代には、祭りだけでなく、戦いの前に飲み終えた杯を叩き割って雄たけびをあげたことでも明らかである。
 たがらいまでもまっとうな神社の結婚式では三三九度をあげないところがある。

2010年9月22日水曜日

お祭り

秋祭りの季節となり私の住む集落でもお祭りです。といっても今は過疎でわずか20戸の氏子で祝います。
有名神社のお祭りは、お祭りなのか見せ物なのか判らなくなっていますが、集落のお祭りは、祭りの原点のようなものでしょう。
 若い衆といっても大半が60歳を過ぎた8人で、半月くらい前から笛や太鼓と獅子舞の練習をします。祭り当日は、氏子総出で高い幟を立て、夜は若い衆が神楽とお囃子で門口を回ります。余興をする年はみなで楽しみ、翌日はまた神楽囃しと獅子舞を奉納して、総出で幟を下します。
 お祭りの時には、都市などにでている子供や孫がもどり家々で団欒をしながら家族の無事を喜び合う、こうした祭りがよいものと感じています。

2010年9月19日日曜日

自殺防止週間?だが

 私は、人間は欲と理性と意地で行動を決めていると思っている。8割以上は欲で動く、理性で判断することは1割もないだろう。そして最後の意地はそれよりもさらに少ない。もちろん欲の力は強力である。しかし、最後に一番強いのは意地だと思っている。
 経済的理由の自殺が多いとされている。しかし、私はそれだけで人は自殺をしていないと思っている。意地が折れた時、つまり人間としてのプライドがどうしようもないまでに傷つけられた時に死を選んでしまうと。
 この厳しい状況の中で労働組合や仲間は、経済的な援助はできないことは多い。しかし、悩んでいる仲間の意地、プライドを支えることはできるのではないか?

2010年9月17日金曜日

お彼岸を前に

墓参りに行ってきた。今年6月に義母が亡くなってそのお墓参りと同じく今年手入れをした家の墓参りの2か所をあわただしく回った。
 義母のお墓は民間の霊園の一画にある義姉の加入する年金組合が募って作った共同墓所だった。先に亡くなった義姉のつれあいも入っている。義姉も入るつもりですでに記銘してある。
 新憲法(ちょっと古いいいかただが現憲法)になって家督相続制度など旧家制度がなくなり、戸籍制度や家族制度も変わった。都市への人口移動もあり核家族が急増し家族の意識なども大きく変わっている。しかし、お墓など人間社会の習慣や社会的システムは追いついていない。そのひとつがお墓だと思う。「死んだら骨などどうでもいい」という考えもある。それを論ずればいろいろでてくるからやめる。
 私自身も、墓などどうでもいいと考えていたが、現実に自分が親たちの墓を受け継いでみると放り出すわけにもいかず、結局はそれを維持するために今回も100万円近くもかけて墓誌や通路の補修などをした。管理を依頼している石屋の話では、現在の都営霊園の墓所を新たに借りると権利だけで5000万円を超えるという。我が家の全財産以上の金額だが残念ながら制度上売ることはできない。
 さて、共同墓所だが、最後はどうなるのだろう? と気になった。その団体に加入している人が全員お墓に入ったら使用料は誰が払うのだろう?。その時 この共同墓所はどうなるのか?  誰が始末をつけるのだろう?
 家族制度も不安定ではあるが、すくなくてもお墓をふくめこの国は家族を底盤にして続いてきた。もちろん無縁になればそれなりに始末されてきたが それも織り込み済みだった。でも希望者を募って作った組合にそれ以上の安定性継続性があるのだろうか?  





 

2010年9月16日木曜日

「困った時 そこに組合がある」

このキャッチコピーは、昔私が東京の組合に居たころ使われていたものである。いまでも使われているかもしれない。しかし、これを「困った 組合がある」に変えなければならないかもしれない。
先日 現在私が入っている建設労働組合の会合が始まる前に学習会の講師に来ていた上部県組織の専従幹部にこんな質問をした。
 私 「大阪で生コンが止まっていることを知っているでしょう。?  連帯関西生コンがストライキをして止めていることを」。
 この幹部の返事は 「知りません!」。 
 私 「労働組合で、県なんだからそれぐらい知っていないと・・・」。
 幹部の返事は、「長野県と何か関係があるんですか!! 」
 現在 建設の状況はかってなく厳しくなっている。仕事がある人は良いほうで、一月仕事がない という人も珍しくない。やっと仕事があっても驚くべきことに大工で10000円を割っている賃金である。もちろん道具や交通費込みだ。そして仕事をしてもなかなか支払われないことも頻発している。
 まさに組合員が「困った時」である。
 問題は、組合は何をしているかである。無為無策なのである。今の組合には難しいことは私も判っている。先輩たちが戦い取った健康保険などに胡坐をかき、既得権に安住して賃金運動などより高い壁に向かって挑戦せず安穏としてきたツケがたまっている。
 だが さらに問題なのは、それが当事者意識の欠如にまで深化していることである。
 組合員の賃金を改善する戦いを起こし なにがなんでも何とかしよう努力して必死になって 組合員の生活と仕事を守ることが労働組合のすべてである。
 困った時 そこに組合がなければならないのだ。ところがそこにあった 見えてきたのは「困った 組合がある」ことだったのは極めて残念だ。

2010年9月14日火曜日

厳しい話が多いなかで

 地価の下落、低金利、税制の優遇、エコポインなどこれでもかの住宅需要喚起が行われている。そうした効果で都市部などでは新築やリフォームがいくらか持ち直している。地方都市のこの辺りでもさっぱりみあたらなかった新築の現場をみかけるようになった。
 しかし、後が続いていないのも現実だ。夏以降の見通しがさっぱりみえないという建築業者が多い。  先日会合で会った人たちからも「〇〇も仕事がないそうだ」「△△に居た大工が仕事が切れたとうちに来ている」などとともに「大工で10000円を切って、6000円.8000円だったそうだ」などびっくりするような話がでていた。
 救われる話は、みんな仕事がなくても「仕事がない」という仲間がくれば自分の仕事を分けている。自分も仕事がなくてもたとえ5日の仕事でも自分一人でやらずに仲間に手伝ってくれと分け合っているという。
 職人の社会は、昔からそうやってワークシァリングをやって助け合ってきたのだ。
 

2010年9月11日土曜日

幻想

 経済成長=景気回復=豊か という幻想が刷りこまれてしまっているようだ。もともと経済成長の追求は、手段にすぎなかった。社会主義社会の出現した状況のなかで資本主義では生産の拡大=「豊かな社会」が想定された。ところが生産を拡大するために技術革新をすすめると単位当たりの労働力需要が減少して失業問題が発生する。世界大恐慌の失業問題の教訓から生産性の向上と完全雇用の実現というこの矛盾する問題を解消する手段が、技術革新で不要となった労働力を吸収するくらいに生産量を増やして経済発展を図ることだった。その経済発展のひとつの指標が経済成長率なのだが、この経済成長率が伸びれば「豊かになる」という幻想がいつのまにか定着しあたかも経済成長率数値が大きくなれば「豊かになる」と思い込んでいる。
 そして「経済成長率をあげること」にやっきになり、国民も「望んで」いる。
 しかし、国民にとって必要なことは完全雇用が実現することである。バブル以後はっきりみえてきたことは、生産が拡大し、経済が発展し、企業が大きくなっても雇用は拡大せず安定もしないで国民の生活は豊かにならない。いくら経済成長率が大きくなり経済が拡大しても国民の失業もくらしの豊かさ(安定)も実現しないことである。

 建設労働者に引き寄せてみてみよう。
 「景気がよくならないと・・」の声が多い。しかし、バブル以後景気はいくども「良く」なった。ではその時仕事は安定し賃金は上がっただろうか?。賃金は20年間下がる一方で仕事はますます厳しくそして不安定になっている。建設生産額を建設労働者数で割った『労働生産性』などは論外として、実際の現場でのひとりひとりの生産性は、技術革新による『合理化』と低単価の労働密度の強化で飛躍的に高くなっている。昔の倍以上働いて身体は疲れ切ってしかも収入は減っている。
 デフレといわれ、物の価格は下がっているがそれ以上に賃金は下がり、しかも賃金の低下には歯止めも底もない。
 経済が成長しても景気が良くなっても生産性が上がっても、建設労働者の賃金は上がらず仕事もくらしも良くならない。
 もうそろそろ、「景気が良くなる」=仕事が増えて賃金が上がり「豊かになる」という幻想は捨てよう。

 必要なことは、建設労働に労働を安売りしないルールーをつくり、無用な技術革新から労働の豊かさを復権することだ。


 

2010年9月4日土曜日

予想されたことだが

8/8に開かれた第13回関西建設研究交流集会で、生コンストライキ問題が討論になり「大阪府下の多くの現場が1カ月間もストップし、一層仕事が減り、大変な影響が出ている。」「一部の労組の今回のストは社会的に支持されるものではなく言語道断」などの意見や、この混乱のなか一方的に会社解散・全従業員解雇を通知してきた生コン会社に対する抗議・要請行動の訴えも行われ、短い時間の中、熱い討論会になりました。」(建設政策133号)ようである。
 迷惑をかけないストライキなど意味はなく、当然混乱もある。だからといって「言語道断」はないだろう。いろいろな経過からみればそう発言した人はどこかの色がついていることも感じられる。というか判りやすくいえば、もともと関西生コンなどの運動方針を巡って共産党から百人規模で離党するなど対立関係にあり共産党傘下の組合はストやぶりをしている。
 大切なことは、労働者が自らの戦いで自らの待遇と運命を切り開こうとしていることをどうみるかである。そして、自分がおなじように自ら戦う立場をとるのか、だれかに依存する立場に立つかである。念のために付け加えておけば、誰かに依存する戦いをしているのは、戦っていることにはならない。