2011年2月24日木曜日

いろいろ考えていたのだか

2晩寝たら忘れてしまった。忘れるようなことは、その時はけっこうまとまった良い考えだったろうが、所詮大したものではない。しかし、そうして深層に溜まっていったものから次は良いことがまとまるのだろう。
 このところバタバタしていて仕事場も事務所も散らかり放題、当然頭の中も。月が変わったら どこも整理をしよう。

2011年2月14日月曜日

なにやらまた

忙しくなってきてしまった。今年こそはと仕事を減らすつもりでやっていた。ところが年明け以後、「着工した」「去年に打ち合わせしていた仕事を」「忘れないでください」と次々と連絡が来る。打ち合わせから半年も音沙汰がないのでしめしめと思っていたのだが仕事が急に動き出したようだ。以前に見積もりや打ち合わせをしたのは断れないので、やるしかない。でも困った。 このままだととても 自分のやりたいことに時間を振り向けることができない・・・・なんとか後継者を早くつくってリタイヤしたいのだが・・・それにはもう少し時間がかかる

2011年2月11日金曜日

久々の大雪になるか

この辺りで「上雪」とよぶ春先に太平洋側を低気圧が通る時に大雪をもたらすが、湿り雪が多く降り積もるが融けるのも早い。まだ20センチにはなっていないし道路はこのところの晴れでまだ黒く見えている。

2011年2月10日木曜日

経済成長の限界

藻谷浩介の「デフレの正体」が話題になり、生産年齢人口の減少による経済成長の限界説がいろいろな分野にも浸透してきた。日本人はそろそろ「経済成長神話」から目覚めなければならないだろう。経済成長は、生産年齢人口の増大を背景に生産性の向上と失業増大の矛盾をそれ以上に経済を成長させることで頓服的に解決する策に過ぎない。つまりは一時的な方策でありその成功体験として語られケインズ学説ももともとそのことを認めているではないか。
 だが、「生産年齢人口」の波よりもっと大きな波があることが忘れられている。いうまでもなく自然の限界である。これは波ではなく断崖であり地の終わりであるのだが、そこに行くまでは実感ができないのだろう。
 農大の学歌にも「科学力で自然を服し、尽きせぬ富源を 四方にひらき 永久に現ぜん 祖国の栄えを・・」とあったが、自然を尽きせぬものと見、科学で自然を従わせるという思想が刷りこまれている。しかし、地震、台風どころか干ばつですら解決できている部分は少ない。結局は限られた範囲で人間がやりくりできているに過ぎず、それもどこかでそのしっぺ返しをうけて、あわてて別の手を打つが、所詮はまたそのための災いがおきるという繰り返しである。「自然を服す」というのは幻想にすぎない。
 それはともかく、限られた自然のなかで人間がどうやって生きていくのかと同じように、限られた生産と経済のなかでどうやって公正な富の分配をし、くらしていくのかをそろそろ真剣に考えなければならない時期にきているのだろう。

2011年2月5日土曜日

憲法第27条

 憲法というとすぐに第9条が思い浮かぶ。しかし、議論が忘れられている条項がある。ひとつは第25条1項の「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」であるが、それよりももっと忘れられているのが第27条1項の「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う」てある。 ひどいことには、労働運動でもこの条項をとりあげることがない。
 憲法の3大義務は「教育」「納税」「勤労」であるが、その義務を裏付ける「権利」をうたっているのは「教育」と「勤労」である。
  憲法第27条第1項「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う。」  現在の氷河期といわれる『就職難』。若者たちは就労の意思をもち、必死に仕事を探している。つまり負った義務を果たすべく努力をしているが、国は彼らの権利を満たそうとして同じくらいの努力をしているとは思えない。また、若者たちは義務への努力はしても権利を要求していないのが不思議である。マスコミをはじめとした世論もこの「勤労の権利」について口を閉ざしている。
 付け加えれば、憲法のこの条項について後半の「義務を負う」に重きをおく学説を唱えるものがいるが、制定の事実経過としては、制定過程の憲法改正要綱では「勤労の権利」はあるが「義務』はない、その後の憲法改正草案でも「義務」はない。つまり、この条項は、国民の労働の権利をもともと明文化するためにつくられたものに制定の際にどさくさで「義務」を付け加えたものである。
 この「勤労の権利」は、フランス革命以来の労働者の「自分の労働をつくりだす権利」と「労働によって生活する権利」という要求を労働権の承認として掲げてきたことに由来したものである。
 それは、人権=天賦の権利でありこれ承認をぬきにしては近代革命の思想、自由、平等、博愛の現実化はあり得なかったからである。事実2月革命の時「フランス共和国臨時革命政府は、労働者が労働によって生きる保障を約束する。」「臨時政府は、全市民に労働の保証を約束する」との声明を発表している。
 もうひとことつけくわえると、労働運動がこの条項を無視しているのは、雇われ人=労働者と労働者と労働の概念を狭くしてしまっている日本の労働運動にとっては「自分の労働をつくりだす権利」など思いもつかない、「会社」にブル下がって「仕事を貰う」雇われ人根性が染みついてしまっているからだろう。ゆえにその子供である若者たちも「就社」しか思いつかない。
 

2011年2月1日火曜日

大糸 北 線の存続

 松本から日本海側の糸魚川を結ぶ大糸線の内 大町・白馬の先 南小谷より先の存続をTV
で報道していた。聞き違いかもしれないが一日9往復の旅客数が44人という。通勤め通学時間帯でも南小谷で大町・松本方面に乗り換える人が1人と映していた。
 私も数年前に乗ったが、一両でその半分を客席残りを貨物室にしたトラック風のヂィゼル車で途中の駅でも他に乗客がいないまま糸魚川まで約1時間余り。その時は松本から特急で着いた南小谷で1時間以上の乗り継ぎ待ちであった。おまけに糸魚川では接続の北陸線特急も各駅もでたすぐ後に着くという冷遇ぶりだ。ちなみに南小谷から松本方面はJR東日本、南小谷以北はJR西日本である。そんなことからJR西日本は廃線を狙って意図的に不便なダイヤを組んでいるとしか思えなかった。
 川の糸魚川の対岸には国道があるが、高齢化の進んだ沿線ではまだこの線に頼る人もいる。経済効率では お話にならないことは判るが、少なくも事業者のJR西日本にも改善するべきことはあるだろう。経済効率で言えば、国交省をはじめとした国や地方自治体は 一銭も稼がない金食い虫である。