2010年10月28日木曜日

寒い

 北アルプスも冠雪したというが、雲がかかってみえない。でも寒いから間違いないだろう。
 ことしももう冬になってしまつた。
 晴れたら写真でもだすか。10年くらい前に買ったデジカメが突然死してしまったのでパナソニックのコンパクトを買った。

2010年10月25日月曜日

偶然

 人生にはいろいろな偶然がある。その偶然がいろいろと重なることがある。物事のいろいろな場面に居合わせたり人との関係が重なることがある。私も学生運動の頃からその後もいろいろな場面に居合わせてやったことが誤解をされることが多い。先日亡くなった友人たちにも『黒幕』『悪役』と言われたことがあったがそれは笑い話になるだけだからいい。
 でも偶然そんな変な場面に居合わせたり人と関係することがなぜか多いのも確かである。学生の頃、総理だった佐藤栄作の警護の内側に巻き込まれて並んでしまって脂ぎった赤ら顔を間近にみて「おぉ さすが」と思ったり、古くは大野伴睦や自民党の大物大臣議員とまともに喧嘩をしたり仕事では共産党の最高幹部と身近に接しシークレットなこと巻き込まれたり、たまたま行ったイベントで魁の武村と二人だけで取り残されてのんびり話をしたり・・・といろいろある。組合の仕事をしている頃も大きな役割をする人の近くにいることが多く結果として重要な場面に居合わせたことが多かった。そんな偶然が変な誤解を生んでいるようだ。これは自分だけでなく、
 先祖も日本の将来を決する場面に居合わせて仕事をした。そのなかではいろいろ誤解や逸話がつくられている。それとは別だが先日も母方の叔母と話していたら「伯父さまは伊藤博文さんが暗殺された時にその弾に当たったのよ。でも安重根は立派な奴だったと言ってらっしゃった。その弾は憲政会館に展示してあるの」と言っていたが、へぇ~そんなこともあったんだと思うともに自分を撃った暗殺者をきちんと見ることができるのはたいしたものだと思った。
 どうやらいろいろな偶然にいあわせるのはしかたがないのかもしれないし、そしてその場面でそれなりにできるだけのことをするのも当然だからしかたがない。とりあえず『誤解』をおそれたこともないだけだ。

2010年10月17日日曜日

手斧(ちょうな)

 村のイベントに建設組合でワークショップを出店した。写真を撮ったのだがその直後デジカメが沈黙したままデーターをださない。これはなんとか吐き出させて載せる予定。
 やったのは手斧削りと鉋削りと丸太を薄く玉切りしてコースターを作ること。手斧というのは鍬のような刃物で、昔はこの道具で丸太を柱や板などに加工した。古い建物の柱や梁にカツカツと叩いたような跡があるそれである。そのままの仕上げもナグリといって力強く美しい。今の鉋が無い時代には、さらにそれを平たい槍の穂先のような槍鉋でなぜるように削って仕上げた。
 この手斧は東京なら60歳以上の大工でなければ使ったことが無くなっている。丸太に乗り、足の爪先を上げてそのギリギリに鍬のように曲がった刃先をしゃくるように打ち込むので慣れていないと危険である。歳をとった大工さんたちがリズミカルに削っていくと人だかりがして、お年寄りは懐かしがり若い人は驚く。
 手鉋の削りも、透けてみえるミクロンの厚みの薄い鉋屑がシューという音ともにテープのようになって宙を泳ぐ。木肌を叩くように削る電気カンナや超仕上げの機械と違って木の細胞を傷つけないで切っているので柱の肌はすべすべして美しく埃すら付かない。見学している人たちは、鉋屑を集めて束ねオンベを作ると持ち帰る。オンベは神主さんが振るハタキのような形もので、建前や御柱祭にも使われる。この薄い鉋屑を撚れば強い紐になり、貰って編んでいる人もいた。
 こうした大工の仕事の様子は、昔はどこの現場でも見られ、子供たちはまるで手品のような職人の手元を飽きずに見ていたものだった。
 やはり、職人はこうした技能を人々にみせなければいけない。それは、単に手先の技術ではなく、こうした手仕事のなかで木の性質やクセを読む力が建物の耐久性や美しさの作り出しているからだ。

2010年10月16日土曜日

いよいよ熊が

 近所の人が熊を見かけたという。谷を挟んだ隣の集落に出たともいうから同じ熊だろう。体長は1m
くらいだったとか。
 確かに今年はドングリが少なく柿も少ないし不味い。春先に裏の斜面を広く間伐したせいで雑木がなくなり、これまであまり見掛けなかったリスがチョロチョロと道にでてくる。昨日の夜はキツネがギャーンギャーンと啼いていたし、先日は大きなイノシシも見かけたという。夏にはハクビシンやアナグマも数頭ワナに掛ったし、下の国道では毎朝のようにあちこちでタヌキが轢かれている。
いよいよ「自然豊かな村」になってきたな。
 ついでにこの数日前からレース鳩が我が家に居ついてエサを待っている。このハトを家のネコのカウッキーが虎視眈々と狙っている。

2010年10月15日金曜日

建設労働者の社会的処遇

 建設労働者の運動というか組合は困難な方向に進んでいる。このことはなんとか早くまとめて書かなければならないと思っている。それは現在の組合幹部特に雇われ幹部たちは建設労働者のことが判らなくなっていることである。これこそ 危機 である。
 朝日新聞の恣意的な報道に端を発した建設国保を巡る問題は、加入者に「建設業従事者の証明」をさせることになってきた。その部分だけをとりあげれば「建設業で働いていなければ国保に入れないから、証明は当然だ」ということになる。これは現在の幹部たちの限界である。
 しかし、問題の本質は別にみなければならない。先般、派遣労働者の問題で日本の社会保障制度、セィフティーネットが大穴だらけで国民・労働者のうちの恵まれたもちろん「恵まれた」なとどはとてもいえない人たちも含むが、それなりの企業や官公庁に雇われている労働者あるいはそれなりの個人事業主などだけしかそれを享受できないことが露呈した。だが、この状態は今始まったことではなく戦後期からあったのである。
 その典型が建設で働く人々である。健康保険制度がはじまった時にもそれから外され、失業保険も年金からも疎外され、社会保障や社会保険制度の狭間に置かれ続けてきた。
 だからこそ、「職人から事業税をとるな」「職人にも健康保険をよこせ」と運動をして自己負担をすることで日雇い健保の擬制適用を運用的に適用させてきた。しかしこれらは諸制度から疎外され建設労働者が闘いによって国や資本に認めさせてきたものである。国保組合の設立もそれである。
 しかし、建設労働者の社会的処遇と労働条件が派遣労働者とまったく同じかむしろもっと厳しい状況はなんら改善されていない。それを自助努力による国保組合の運営に安住し、あるいは国の各種審議会程度に幹部が入れる程度の組合になった程度のことで「慢心」をしているのではないか。
 「立派な組合」になったかもしれない。しかし、「組合員の社会的処遇やくらしは立派になった」かといえばまったく変わっていないではないか。
 現場でケガをした時、法的強制力のない労災保険の特別加入に自己負担で入っていなければ何の保障もない、国保組合もわずかな国の補助金以外は自分たちの助け合いであり、長期の休業保障もない、失業保険にも入れず仕事が切れれば失業の保障もない、仕事に欠かせない道具も自分持ち、なのに賃金はかっての半分に下がっている。つまり仕事でケガをしても病気になっても仕事がきれて失業しても何の保障もない。
  今回、建設業で働いている証明、雇われている証明・・・・それはすべて建設労働者を排除し疎外してきた国の貧弱な社会保障制度に建設労働者のほうから合わせるようにしろ、その枠に入れ もしその書類や実態をそろえなければ排除されてもしかたがないと言ってきたことである。そんなことに唯唯諾諾と従うことは、闘いによってこれまで切り開いてきた先輩たちに顔向けができないはずだ。
 あるがままの建設労働者や疎外された国民を網羅する社会保障制度や社会保険制度を国に変えさせ、作らせることこそ建設労働運動の王道でありやってきたことだ。
 

2010年10月11日月曜日

風邪かな

 10月10日は東京オリンピックにも選ばれた晴れの特異日だった。集落のお祭りは晴れの特異日と休日ということで長く10月9-10日と決まっていた。ところが今年は雨。総出で大きな幟を立てるのだが「どうしようか?」ということになった。
 氏子総代長になっている私が決めなければならない。年寄りに前例を聞いてみたが「いままで雨が降ったことがない」ということで前例頼みは不発。けっきょく濡れて汚れたり重くなって危険なのであえて立てることもあるまいということで今年は幟を立てることはお休みすることに決定。「みんなの気持ちの中では幟を立てたことにしましょう。」ということに落着。この辺がこの集落の良いところ。変に建前や習慣にこだわらず年寄りも含めてみなさん合理的な判断をする。 後から他の集落の様子を聞いてみたところ、柱だけ立てたところもあったとか。
 そんなこんなで掃除や提灯などの飾り立てをして終了。夜は若い衆で神楽をもって門々を回るのだがこれも雨で中止して花飾りを各戸に届けて終わり。
 それでも宵祭りでは神楽と獅子舞を奉納して若い衆は11時すぎまで飲む。以前は明け方近くまで飲んでいたが「若い衆」といっても大半が60歳を過ぎてきたので体力も続かない。おかげで私が移住した20年前には皆で10本は軽く飲んだお酒もいまでは1本をもてあましている。もちろん他にビールは飲むが。
 ともかく10日の昼祭りを終えて勘定酒で清算をして今年の祭りは無事に終了。氏子総代は3年任期なのであと2年も務めなければならない。ふぅぅ
 この時期 気温も暑かったり寒かったりで不規則な生活と重なって体調不良だ。

2010年10月8日金曜日

腰をやっちゃった

 今日は県内にストーブの取り付け。二重構造になっているので約150Kgとやたらと重い。自分で造ったので重いことは判っていたが、作業上やむなく二人で持ち上げて移動。注意はしていたがやはり腰にきた。
 明日から地元のお祭り。おまけに氏子総代長を務めなければならない。幟を立てるのだが無理そう。

2010年10月6日水曜日

誰の手を握って

 昨夜はなんとなく語りそびれてしまったので ここに書く。
 亡くなった友に「会いたい」と呼び出された。最後になった治療で入院する前にM君と共に会うことになって東大の脇を歩いて喫茶店に入った。
 「実は妻に離婚調停を申し入れる」と語りだした。俺たちは、もう長く心も実際も切れているのなら、ガンと闘うだけでも大変なのにそんな面倒なことは止めたほうがいいと言った。しかし、彼は今の彼女のために「男のケジメ」としてこれだけはしておきたいんだと言う。自分が死んだあと、彼女を妻の攻撃から守りたい気持ちもあったのだろう。
 夫婦で一方から「もう貴方と人生を共にする気持ちがない」と宣言をされてしまえば、もうお終いである。法律的に妻だ夫だと言ったところで、何の意味も無い。「お前とは離婚をした」と通告したことだけでことは足りてる。後は泣いても叫んでも、形を残しても相手の心が戻らない限りお終いである。
 だからそれだけで十分ではないかと、彼に言った。
 しかし、彼はこう言った。「今わの際に誰の手を握って ありがとう と言って死ぬかの問題だ!」
 私たちは納得した。
 
 
 
 

青い鳥

 8月に逝った学生時代からの友を送る会があった。すべてに心配りのいきとどいた会には主催してくれた皆さんに感謝である。送られた友は果報者だ。
 彼と出会ったのは、社会や労働が大きく変わり始めた70年代、俗に「全共闘世代」とよばれるようになった時代であった。残念ながら全共闘の側ではなかったが、共に正義感と世の中への異議申し立てを学生運動、労働運動というかたちで世の中に進んだ。
 いま考えると、右旋回だと「黒い鳥」になるような気がしていたから左旋回で「青い鳥」を求めて行ったことになるのだろう。右旋回ならもっと早くみつけたかもしれないが、左旋回をしたことをいまだに間違っていたとか損をしたとは思っていない。おかげで裏切られたり、反省をしたりいろいろなものを見せてもらった分だけ得をしたと思っている。右回りでも左回りでも、求めて歩くことなくしては青い鳥はみつからない。
 お互いに青臭い若いままの「初心」を持ち続けながら自分自身の力で何かをみつけることができた。もちろん若い頃には気がつかなかった人たちの暖かい力に支えられてである。自分が冷たければ周りの力は暖かくならない。
 昨日の会を開いてくれた浅草のみなさん、ブログのみなさん、高校時代、学生時代の仲間・・・がその人たちであり、その人たちに愛されるようなことを彼は成した。
 亡くなったのは悔しいが、いい人生を送った彼は幸せ者だ。いい顔をした遺影だった。
                                                          合掌
 

2010年10月4日月曜日

6寸5分

チムニーに結露防止の処置をするために登ることになった。新築の時は屋根足場があつたからよかったが、今はない。二階で屋根勾配は6寸5分。位置が奥まっているので高所作業車ではとどかない。
屋根足場を組むにも同じことをするしかないといろいろ考えたが結局はもっとも原始的な方法をとるしかない。屋根勾配に合わせてスライダー梯子を掛け、それにさらにもう一本スライダー梯子を継ぎ足して棟までとどかせた。それでやっと棟とチムニーに登り足掛りにして、2*4材でチムニーを囲む足場を組んだ。そうした資材もこの危なっかしい梯子を登り降りして運ぶしかない。
 この6寸5分という勾配はなんとも中途半端で立ち上がって登るのはできないし四つん這いで登れば手が塞がる。ということで少しずつ持っては十数回の登り降り。終わって足場材を解体して下すまでこれだけで疲れた。
 結果は、無事に完了したが その後数日足腰が痛くなった。