2011年2月5日土曜日

憲法第27条

 憲法というとすぐに第9条が思い浮かぶ。しかし、議論が忘れられている条項がある。ひとつは第25条1項の「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」であるが、それよりももっと忘れられているのが第27条1項の「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う」てある。 ひどいことには、労働運動でもこの条項をとりあげることがない。
 憲法の3大義務は「教育」「納税」「勤労」であるが、その義務を裏付ける「権利」をうたっているのは「教育」と「勤労」である。
  憲法第27条第1項「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う。」  現在の氷河期といわれる『就職難』。若者たちは就労の意思をもち、必死に仕事を探している。つまり負った義務を果たすべく努力をしているが、国は彼らの権利を満たそうとして同じくらいの努力をしているとは思えない。また、若者たちは義務への努力はしても権利を要求していないのが不思議である。マスコミをはじめとした世論もこの「勤労の権利」について口を閉ざしている。
 付け加えれば、憲法のこの条項について後半の「義務を負う」に重きをおく学説を唱えるものがいるが、制定の事実経過としては、制定過程の憲法改正要綱では「勤労の権利」はあるが「義務』はない、その後の憲法改正草案でも「義務」はない。つまり、この条項は、国民の労働の権利をもともと明文化するためにつくられたものに制定の際にどさくさで「義務」を付け加えたものである。
 この「勤労の権利」は、フランス革命以来の労働者の「自分の労働をつくりだす権利」と「労働によって生活する権利」という要求を労働権の承認として掲げてきたことに由来したものである。
 それは、人権=天賦の権利でありこれ承認をぬきにしては近代革命の思想、自由、平等、博愛の現実化はあり得なかったからである。事実2月革命の時「フランス共和国臨時革命政府は、労働者が労働によって生きる保障を約束する。」「臨時政府は、全市民に労働の保証を約束する」との声明を発表している。
 もうひとことつけくわえると、労働運動がこの条項を無視しているのは、雇われ人=労働者と労働者と労働の概念を狭くしてしまっている日本の労働運動にとっては「自分の労働をつくりだす権利」など思いもつかない、「会社」にブル下がって「仕事を貰う」雇われ人根性が染みついてしまっているからだろう。ゆえにその子供である若者たちも「就社」しか思いつかない。
 

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