2011年10月7日金曜日

専門家を考える

気が付いてみると私たちは「専門家」に取り囲まれてくらしている。「取り囲まれて」ではなく「取り込まれて」なのかもしれない。
こんかいの福島原子力発電所の事故では、テレビなどに入れ替わり立ち替わり原子力の『専門家』が登場して説明や解説をした。しかし、「シーベル」「ベクレル」という聞きなれない単位が飛び交ったあげくに結局わたしたちが一番知りたかったこと「安全なの?」ということは得心できなかった。
なぜそうなのか、『専門家』と聞くとなんでも知っているすごい人と思ってしまうが、実はこの人たちは専門以外のことついては『素人』である。それだけでなくこの『専門家』と称する人たちは、専門領域からしか考えることができない、専門領域からしか世界を見ることができない、専門領域の世界だから通用する人たちなのである。

こうした『専門家』たちは自分たちだけの高みの世界を築いて、外の「素人」には立ち入れない柵を作る。その中は専門家にとって居心地のよい世界であり、今回あきらかになった「原子力ムラ」のように利権と結びついた世界になる。
専門家にとって外の素人は必要な協力(利用できる)だけをしてくれればいい存在であり、素人たちからあれこれの干渉や意見などをされることは鬱陶しいだけでなく「低級」な素人の干渉や介入は居心地のよい世界を害するものでしかない。
原子力はまさにその「専門家の世界」であった。
先のテレビの話に戻れば、聞きなれない言葉と難しそうな説明もけっきょくのところ、「素人は訳も判らず騒がず、専門家に任せておくのが一番いい、黙って言うことを聞きなさい」と云うことだった。

後から明らかになった「核燃料の融け漏れ落ち」も彼らはその時には知っていたが、言わなかった。
『専門家』は原子力ムラだけではない。「ただちには健康に影響がない」と言いづけた政府、政治家もまた、専門領域からだけしか考えることができない、与野党含めた「政治ムラ」「永田町」をつくる『専門家』である。官僚と呼ばれる「霞が関ムラ」の役人たちもまた『専門家』である。
それだけでなくマスコミもまた「マスコミムラ」を作って情報を操作して『世論』を『つくって』いる。

今回の原発事故で国民の信頼を喪失した 原子力、政治、マスコミという『専門家』だけでなく、私たちの身の回りにあふれ、私たちを取り込んでいる「専門家」について引き続いて考えていく必要がある。
なぜなら、会社で工場で学校で・・・あらゆる場所に専門家、専門部署というものがつくられそうしたシステムに組み込まれている私たちがいるからだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿