2010年9月16日木曜日

「困った時 そこに組合がある」

このキャッチコピーは、昔私が東京の組合に居たころ使われていたものである。いまでも使われているかもしれない。しかし、これを「困った 組合がある」に変えなければならないかもしれない。
先日 現在私が入っている建設労働組合の会合が始まる前に学習会の講師に来ていた上部県組織の専従幹部にこんな質問をした。
 私 「大阪で生コンが止まっていることを知っているでしょう。?  連帯関西生コンがストライキをして止めていることを」。
 この幹部の返事は 「知りません!」。 
 私 「労働組合で、県なんだからそれぐらい知っていないと・・・」。
 幹部の返事は、「長野県と何か関係があるんですか!! 」
 現在 建設の状況はかってなく厳しくなっている。仕事がある人は良いほうで、一月仕事がない という人も珍しくない。やっと仕事があっても驚くべきことに大工で10000円を割っている賃金である。もちろん道具や交通費込みだ。そして仕事をしてもなかなか支払われないことも頻発している。
 まさに組合員が「困った時」である。
 問題は、組合は何をしているかである。無為無策なのである。今の組合には難しいことは私も判っている。先輩たちが戦い取った健康保険などに胡坐をかき、既得権に安住して賃金運動などより高い壁に向かって挑戦せず安穏としてきたツケがたまっている。
 だが さらに問題なのは、それが当事者意識の欠如にまで深化していることである。
 組合員の賃金を改善する戦いを起こし なにがなんでも何とかしよう努力して必死になって 組合員の生活と仕事を守ることが労働組合のすべてである。
 困った時 そこに組合がなければならないのだ。ところがそこにあった 見えてきたのは「困った 組合がある」ことだったのは極めて残念だ。

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